マイク・マンスフィールド大使について
English page
故マイク・マンスフィールド大使についてのウェビナー(英語)
「Mansfield Dialogue with Dr. Paul Lauren」動画(YouTube)
(モンタナ大学マンスフィールドセンター、2024年3月7日)
1903年3月16日 – 2001年10月5日
「いつか、アメリカと太平洋沿岸の他の国々が湖を囲んだ隣人のようになり、共通の関心と共通の目標を分かち合う密接に絡んだコミュニティになると信じています。」
~ マイク・マンスフィールド 1980年3月27日 ~
マイク・マンスフィールドは、寡黙で非常に謙虚な人物として知られ、しばしば『自分は後世に名を残したくない』と語っていました。けれども、彼の豊かな人生と数々の功績は、今を生きる私たちにも大きな刺激と励ましを与えてくれます。貧しい幼少期を過ごし、銅鉱山での過酷な労働から人生を歩み始めたマンスフィールドは、上院議員として頭角を現し、やがて駐日アメリカ大使としても活躍しました。国際社会との架け橋となり、6人のアメリカ大統領に仕えながら、20世紀の数々の重要な国内外の課題において、中心的な役割を果たしました。その卓越した仕事ぶりと人間性は、国内外の指導者たちからも高く評価され、彼の持つ深い知識と知恵、勇気と誠実さ、そして揺るがぬ信念とリーダーシップは、多くの人々の尊敬を集めています。
貧しい子ども時代
マイク・マンスフィールドは、1903年3月16日にニューヨークで生まれました。7歳のときに母を亡くし、その後、父はマイクと2人の姉妹をモンタナ州グレートフォールズの叔父夫婦に預けました。14歳になると、第一次世界大戦のさなか、海軍に入隊するため、年齢を偽って志願しました。後に陸軍と海兵隊へと移り、マンスフィールドはフィリピンや中国に派遣され、その経験がアジアへの生涯にわたる関心を抱くきっかけとなりました。
左より: エドウィン・ネルソン二等兵、ジェームズ・ディクソン一等兵、マンスフィールド、ハワード・パーキンス伍長、アーサー・クリッテンデン二等兵(1944年11月25日)
マイク・マンスフィールド、米国の水兵とベトナム難民とともに(1954年)
廃石処理の仕事から教師へ
1922年、マイク・マンスフィールドは海兵隊を円満に除隊し、モンタナ州に戻りました。高校を卒業していなかった彼は、モンタナ州ビュートの鉱山で、「マッカー(坑内労働者)」として、地下300メートルにおよぶ過酷な現場で岩石や鉱石をスコップで掘り出す仕事に従事しながら、モンタナ鉱山学校に通いました。ビュートで生活していた時に、彼は若い学校教師のモーリーン・ヘイズと出会いました。彼女はマンスフィールドに勉学を続けるよう励まし、資金面でも精神面でも支えになりました。その支援を受け、マンスフィールドはモンタナ州立大学(現在のモンタナ大学)に進学し、特待生として高校と大学の課程を同時に履修しました。彼とモーリーン・ヘイズは1932年に結婚し、モーリーンが2000年9月に亡くなるまで、生涯にわたって誠実で敬意にあふれた関係を築きました。
1933年、マンスフィールドは高校修了に相当する資格と大学の学位を取得したのに続き、翌1934年には修士号も修了しました。その後1942年まで、モンタナ大学でラテンアメリカ史や東アジア史の講義を担当しました。
彼の修士論文のタイトルは、「1866年から1910年におけるアメリカと朝鮮の外交関係」で、要約をこちらで閲覧できます。
超党派のリーダーシップ
マイク・マンスフィールドの政治家としての歩みは、1942年、アメリカ連邦下院議員に初当選した時に始まりました。モンタナ州第1選挙区を代表して下院議員を5期務めたのち、1952年には上院議員に選出され、その後も1958年、1964年、1970年と再選を重ねました。1957年には上院多数党の幹事に就任し、1961年には多数党のリーダー(「院内総務」)となりました。それ以来、1977年に上院を引退するまでの16年間、その職を務め上げましたが、これは米国史上最長の上院多数党リーダー在任記録となっています。
マンスフィールドは、上院を議員同士が対等に意見を交わす場として考え、若手議員にも積極的に発言の機会と役割を与えました。この姿勢が歴代の誰よりも現代上院のあり方を形づくったと言われています。また、政党の垣根を越えて上院議員たちから尊敬されていた彼は、1960年代に「偉大な社会」法などを成立させ、大きな成果を収めました。それにもかかわらず、公務の合間を縫ってはモンタナ州の人々から届いた手紙に一通ずつ目を通し、自ら署名しました。そしてモンタナ州の有権者だけでなく、ワシントンD.C.で出会った多くの人の名前も驚くほどよく覚えていました。さらに毎年クリスマスには、マイクとモーリーンがデザインしたカードをモンタナの人々をはじめ多くの人に送っていたので、それを楽しみに待つ人も少なくありませんでした。
上院議員時代ー左より: マイク・マンスフィールド、ジョン・F・ケネディ(民主党マサチューセッツ州選出、下院議員・1947年-1953年、上院議員・1953年-1960年、 大統領・1961年-1963年)、ヘンリー・ “スクープ”・ジャクソン (民主党ワシントン州選出、 下院議員・1941年-1953年、上院議員・1953年-1983年)、 ジョージタウンの野球場で(1954年)
モーリーン・マンスフィールドとマンスフィールド上院議員、パット・ニクソンとニクソン大統領
尊敬された大使として
議会在籍中のマイク・マンスフィールドは、1951年にトルーマン大統領、1958年にアイゼンハワー大統領から、それぞれ国連代表として派遣されました。米国とアジアの関係に精通した専門家として、ルーズベルト、ケネディ、ジョンソン、ニクソン、フォードといった歴代大統領のもとで外交政策に携わってきました。なかでも、ニクソン大統領との非公式な会談は、1972年の歴史的な訪中への重要な布石となったとされています。
また、マンスフィールドはベトナム戦争への米国の関与に強く反対する姿勢を明確に示し、歴代の大統領たちに対して、戦争拡大を思いとどまるよう、内々に進言し続けました。
1977年にはカーター大統領(民主党)から駐日アメリカ大使に任命され、その後もレーガン大統領(共和党)のもとでも引き続きその任を託され、1988年まで務め上げました。この在任期間は、駐日アメリカ大使として歴代最長記録です。マンスフィールドはアジア問題での経験を携えて東京の米国大使館に赴任し、困難を極めた日米間の貿易・防衛問題の調整に尽力し、その知恵と思いやりによって、信頼と尊敬を集めました。
1989年に引退後は、ワシントンD.C.のゴールドマン・サックス極東部門アドバイザーに就任し、2001年10月に亡くなるまで務めました。
マイク・マンスフィールドについて、さらに詳しくお知りになりたい方は、 Mike Mansfield: In his own Voice をご参照ください。
一般社団法人
モーリーン・アンド・マイク
・マンスフィールド東京
〒106-0032
東京都港区六本木5-11-16
国際文化会館 1階
Phone: (03) 5413-5885
Fax: (03) 3478-1773
tokyoinfo[at]mansfieldfdn.org
Washington, D.C. Office
The Maureen and Mike
Mansfield Foundation
1156 15th Street, NW
Suite 1105
Washington, D.C. 20005
Phone: (202) 347-1994
Fax: (202) 347-3941
info[at]mansfieldfdn.org