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マイク・マンスフィールド大使について

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「いつか、アメリカと太平洋沿岸の他の国々が湖を囲んだ隣人のようになり、

共通の関心と共通の目標を分かち合う密接に絡んだコミュニティになると信じています。」

~ マイク・マンスフィード 1980327日~

寡黙で非常に謙虚な男性、マイク・マンスフィールドはしばしば言った。名を残したくないと。それでも、彼の魅力あふれる人生の物語や偉大なる貢献は続く者たちにとってのインスピレーションである。一世紀近くにわたる人生で、彼はモンタナに、米国議会上院に、そして国際外交の世界に永遠に残る痕跡を刻んだ。貧しい子供時代とモンタナの銅鉱山のどん底から立身し、米国議会上院議員を経て、在日米国大使となる、マイク・マンスフィールドの長い公生活は6人の大統領の橋渡しをし、20世紀の多く主要な外交と国際問題において中心的な役割を果たした。卓越した公職の任期中、マンスフィールドは、彼が持つ知識、知恵、勇気、高潔、指導力が故、米国内だけでなく世界の指導者達の尊敬の念を集めた。

貧しい子供時代

 

マイク・マンスフィールドは1903316日にニューヨークで誕生した。マイクが7歳のときに彼の母は他界し、その後、父はマイクと二人の姉妹をモンタナ州グレートフォールズの叔母と叔父に預けた。14歳の時、第1次世界大戦中で戦っていた米海軍に入隊するために年齢を偽った。その後、海兵隊に入隊し、フィリピン、中国へ派兵され、アジアへの生涯にわたる関心に目覚めた。

左より: エドウィン・ネルソン二等兵、ジェームズ・ディクソン一等兵、マンスフィールド、ハワード・パーキンス伍長、アーサー・クリッテンデン二等兵(19441125日)

マイク・マンスフィールド、米国の水兵とベトナム難民とともに(1954年)

廃石処理の仕事から教師へ

 

1922年に海兵隊を円満除隊した後、マイク・マンスフィールドはモンタナに戻った。高校を卒業していなかったため、彼はモンタナ州ビュートの鉱山で、300メートル地下にある岩や功績を掘り起こす廃石処理の仕事をしながら、モンタナ鉱山学校に通った。ビュートにいた時に、彼は若い学校教師のモーリーン・ヘイズと出会い、彼女はマイクに勉学を続けるよう励ました。彼女の資金的また精神的支援によって、マンスフィールドはモンタナ州立大学(現在のモンタナ大学)に進学し、特待生として高校と大学のコースを同時に受講した。彼とモーリーン・ヘイズは1932年に結婚し、20009月にモーリーンが亡くなるまで続く、類まれなる献身とコミットメントと尊敬で結ばれた生涯にわたる関係が始まった。

マンスフィールドは1933年に高校修了証に相当する資格と学位の資格を取得し、1934年に修士号を取得した。その後、1942年までモンタナ大学でラテンアメリカと東アジアの歴史を教えた。マンスフィールドの修士論文は「米国と朝鮮の外交的関係(1866-1910年)」で、オンライン(こちら)で閲覧できる(要約はこちら)。

超党派のリーダーシップ

マイク・マンスフィールドの政治のキャリアは1942年に米国議会下院議員に当選した時に始まった。モンタナ州第1選挙区選出議員として5年の任期を務めた。1952年に、彼は米国議会上院議員に当選し、1958年、1964年、1970年に再選された。1957年に上院多数党院内幹事、1961年に上院多数党院内総務に選出され、1977年に上院議員を引退するまでの16年間務めた。これは、米国史上最長の記録である。

マイク・マンスフィールドは、同輩の上院議員が台頭するのを受け入れ、若い上院議員が発言する機会と役割を与えることで他のどの指導者よりも現代の上院の形を作り上げたとも言える。両党の上院議員から尊敬され、1960年代の「偉大な社会」法の制定など偉大な業績へと導いた。それにも関わらず、彼は仕事の合間を縫って、モンタナ州の選挙区民への手紙に目を通し、サインをし、故郷だけでなくワシントンD.C.の人々の名前を覚えていることに長けていた。毎年、モンタナの選挙区民の人たちは、彼とモーリーンがデザインしたクリスマスカードを受け取るのを楽しみにしていた。

上院議員時代ー左より: マイク・マンスフィールド、ジョン・F・ケネディ民主党マサチューセッツ州選出、下院議員・1947-1953年、上院議員・1953-1960年、 大統領・1961-1963年)、ヘンリー・ “スクープ”・ジャクソン (民主党ワシントン州選出、 下院議員・1941-1953年、上院議員・1953-1983年)、 ジョージタウンの野球場で(1954年)

モーリーン・マンスフィールドとマンスフィールド上院議員、パット・ニクソンとニクソン大統領

尊敬された大使として

 

マイク・マンスフィールドが議会にいた年月は、トルーマン大統領とアイゼンハワー大統領が、彼をそれぞれ1951年と1958年にそれぞれ国連に派遣された。米国アジア関係の権威者であることも考慮され、ルーズベルト大統領、ケネディ大統領、ジョンソン大統領、ニクソン大統領、フォード大統領のもと外交政策の任務を遂行し、ニクソン大統領との個人的な場での議論はニクソンが1972年に行った中国への電撃訪問への道を開いた。マイク・マンスフィールドはベトナム戦争への反対の立場を声高に唱えるのに躊躇せず、米国の介入を思いとどまるよう後続の大統領達に個人的に進言していた。

1977年、カーター大統領はマイク・マンスフィールドを日本への大使に任命した。彼は続くレーガン大統領にも再任命され、19891月まで大使を務め、これは駐日米国大使の中で最も長い在任期間になる。マンスフィールドは彼のアジアにおける経験を在京大使館にもたらし、二国間の困難な貿易や防衛問題に取り組み、その智識と神経の細やかさ故に信頼と尊敬の念が持たれた。

1989年に引退した後は、200110月に亡くなるまで、マイク・マンスフィールドはワシントンD.C.のゴールドマン・サックスの極東部門アドバイザーに就いた。

マイク・マンスフィールドについて、さらに詳しくお知りになりた方は、 Mike Mansfield: In his own Voice をご参照ください。

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